かりんとうまんじゅう日記

かりんとう饅頭のおいしさを知ったあの日。私の中でしがみついていた物が崩壊した。

正直に話そう。私は休みたい。

正直に話そう。

私は休みたい。ほどほどの労力で暮らしたいと願う。
仕事や家事、そして育児を休むことに理由なんて必要ないはずだ。
そしてその理由が相手を納得させるようなものでないと休めないなんて思うのは、ほとほと疲れた。

仕事について考えると、体調不良や忌引きなど『それは誰が聞いても休むよね』という切迫感がないと休みにくい。
下手したら『這ってでも来い。私の時は〜』なんて変な武勇伝を聞かされる羽目になってしまう。

家事について考えると、いつもピカピカ清潔で快適な家。掃除が行き届いていてふんわりアロマの香りなんかして。観葉植物やお花が飾ってあって食卓はオーガニックな食材を使った品々が並ぶ。お布団もふんわりふかふか。…それ、誰がするの?って言いたくなるようなことばかり。家に対する理想って住んでる人の数だけ異なるものがあったり、優先順位も違うからなあ。
例えば、食事に主眼を置く人が惣菜ばかり並べられると嫌がるみたいなこと。でも、その惣菜すらアナタ並べないよね?って話です。

育児について考えると、我が家は8ヶ月の幼子がいる。生活のリズムの中心はこの幼子に委ねられている。自分の時間なんてものは、産まれた時からどうやっても作れるものじゃない。と分かったから
あえて今、その時間が欲しいとは思わない。

どんな場面であっても、人は役割があってそこに活かされていることはまぎれもない事実である。
でも、ふと考える。活かされていることばかりに目を向けてしまうと、その場所がなくなることへの恐怖感は募るばかりではないだろうか。
例えば仕事について言えば、仕事があるから(役割があるから)生活できる。これは事実である。仕事がなくなるという恐怖で身を粉にして働くのは、どうだろうか。
家での役割がある。家事をこなすことで家族が快適に住むことができる。家事をしないといけない、家のことは私がしないと。となって身を粉にしてしまうのはどうだろうか。
育児での役割がある。子どもを育てる責任がある。子どもであれ、自分以外の人の人生の基盤を作るために一人で身を粉にしてまで頑張らないといけないのはどうだろうか。

ふと思う。自分のために休むことが
何も罪もなく、妬まれることもなく自然に誰もができることであればいいのに。

休みたい。
ひとまず休もうか。
休みましょう。

普通の会話でこんな風にできたら気持ちよく休めるだろうな。

こんな風に書きたいと思ったのは
人生で初めての欠勤をしたことで心のモヤモヤが止まらなくなって、グーグル先生で調べたら『欠勤 減給』『欠勤 心配』『欠勤 退職』といった言葉が検索ワードにあがってきて、なんとも言えない気持ちになったからだ。

明日、どんな顔で私は出勤するのだろう。まだ熱が下がらない幼子を置いて
朝から晩まで働く…んだ。