かりんとうまんじゅう日記

かりんとう饅頭のおいしさを知ったあの日。私の中でしがみついていた物が崩壊した。

予定日を過ぎた。

まだか、まだかと待ちわびる。
お腹の痛みと張りは10分置きにやってきては、去っていく。
病院への連絡もどのタイミングでしたらいいのか分からず、もっと痛くなったら…とか、もっと感覚が短くなったら…と思えば数時間過ぎてしまい、結局はお腹も元通りになる。

また思わせぶりな感じなのかなっと思ってしまう。
初産だから遅れるってのはもちろん聞くけど早く産まれた人の話を聞くと羨ましく思う。

誕生を今か今かと待ちわびしている人たちがいる。そのことによる、ちょっとしたプレッシャーとストレス。
旦那さんはあまり心配していないようで予定日は何も連絡してこなかったことや気にして何かを聞いてくることもないことへの苛立ちと、どうしようもない不安感。興味がないのかと感じてしまう。

仕事復帰のめどをつけたい。保育所が見つかるようになんとか1日でも早くそのことに動き出したい。
我が子の純粋な誕生を待っている気持ちが段々、また今日じゃなかったという残念な気持ちが増してきてなんだかうまく気持ちの落ちどころが見つからない。

旦那から 予定日を過ぎたことはだれが悪いわけでもない。と言われた。
たしかに、誰も悪くない。我が子は我が子のタイミングで頑張っているし、私は私で散歩をしたりエクササイズをして安産になるように、動いている。
どんなに医学が発展しようとも、産まれるものをコントロールすることは本当に難しいんだなって思う。

自分が頑張ればどうにかなる。
ことが不可能なのがまだ受け入れられない。まだ何かをしたい、やり残しているのではないだろうかと焦りと不安。そして苛立ちにつながっていきそう。

夜中に心配して起きていたという母。
もしかしたらと思って作ってくれているおにぎり。

まだなのかな〜と言いながら少し残念そうにする姿や待ちわびている姿を見ると私が痛みに耐えていたとしても、これが本番の痛みではないと分かるとやはり辛い。

父の命日が明日。
その日に産まれるかもしれないねって周りはいう。
その日に産まれても父の生まれ変わりではないし、父が来るわけでもない。
6年前の今日、病院への1人でいつものようにお見舞いに行った時
もしかして今晩が山場かもしれないと感じた。前日と変わりなく話す父。しかし病状が悪化して、これはさすがに…。と感じたあの日。急いで母たちを呼んだあの日。父に手技を頼まれたときにうまく出来なくって、私が父に最後に言われた言葉は 本当にお前は人の話を聞いてないなっと半分笑顔で言われたことだった。

6年で人は生まれ変わるのか?
命日は命日としてあってもいいのではないだろうか。


人の話を聞きなさいと言った父の言葉は今の私の状況にぴたりと当てはまる。

我の思いだけでうまくいくことはない。
こればかりは気長に待つしかないんだろう。

誰も悪くないんだから。